ファースト・マンという映画をご存知でしょうか。
映画「セッション」「ラ・ラ・ランド」で一躍有名となったデイミアン・チャゼル監督の長編映画で、「ラ・ラ・ランド」で主演を務めた俳優ライアン・ゴズリングと再びタッグを組んだ大作です。
本作はアポロ11号の船長ニール・アームストロングの伝記が基になっていて、派手な演出や華々しい偉業の喧伝ではなく、ニール・アームストロングという人間の心の揺らぎを丁寧に描いた、繊細で自省的な作品となっています。
おすすめの作品ですので、まだ観ていない方は是非ご覧になってみてください。
さて、では本題に入りましょう。
今回は月探査の歴史と、アルテミス計画についてです。
人類は常に、自分たちのフィールドを外へと広げてきました。
かつてアフリカ大陸で芽生えたわたしたちの祖先は、長い時間をかけて世界中へと散らばります。
やがて彼らは壁のように立ちはだかる険しい山を踏破し、果てしなく続く大洋を渡りきり、極限環境にある南極にすら基地を建設しました。
そんな人類が地球の外、宇宙へと飛び出していくのはごく自然なことのように感じます。
今回は人類が地球の外側に位置する「月」を目指した歴史と、これからの探査計画について見てみましょう。
月探査の歴史
月探査の歴史は、第二次世界大戦後に始まった冷戦と密接に関係しています。
冷戦とはアメリカ合衆国とソビエト連邦(現在はロシア連邦)という二つの大国が世界を二分して軍事や経済など様々な分野で競い合った対立のことですが、月の探査も冷戦の主要な舞台となりました。
その歴史を、簡単に追っていきましょう。
宇宙開発競争の幕開け
宇宙開発が本格化する発端となったのは、ソ連が1957年10月に世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功したことでした。
世界一の科学力を誇ると自負していた米国はソ連に先行されたことに焦り、すぐに「エクスプローラー1号」を打ち上げましたが、この後もことごとくソ連の後を追いかけ続けることになりました。
1961年4月には「ボストーク1号」に乗ったソ連のユーリイ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成し遂げます。
「地球は青かった」という彼の有名な言葉を知っている人は多いでしょう。しかし、ガガーリンが宇宙へ行った約10か月後に米国のジョン・グレンがアメリカ人で初めて地球を周回した宇宙飛行士となったことを知っている人は少ないのではないでしょうか。
それほど、「最初(ファースト)」には唯一無二のインパクトがあるのです。冷戦中の米国とソ連にとって、宇宙開発競争は国家の威信を国の内外に示す最高の舞台でした。
ルナ計画
ガガーリンが人類初の宇宙飛行へと飛び立つより3年前の1958年、ソ連のルナ計画が始まりました。
ルナ計画は数々の偉業を成し遂げます。
初めて月軌道に投入された「ルナ1号」、月面に衝突して初めて月へ到達した人工物となった「ルナ2号」、1959年10月には「ルナ3号」が月の裏側を撮影しました。そして、ルナ3号から約6年後の1966年2月に「ルナ9号」が史上初の月面着陸に成功します。
このように、宇宙開発競争におけるソ連はライバルである米国を長きに渡ってリードしていました。
ですが、人類最初の足跡を月の地表に刻んだのはソ連の宇宙飛行士ではなく、アメリカ人のニール・アームストロングでした。
アポロ計画
アメリカ合衆国第35代大統領であるジョン・F・ケネディは、1961年5月に「10年以内に人間を月へ送る」と議会で明言しました。
残念ながらケネディはその2年半後にテキサス州ダラスで暗殺されてしまい、自らの公約が達成される瞬間を見届けることはできませんでしたが、彼の掲げた目標はその後のアポロ計画の行く末を決定づけることとなりました。
月へ人類を送ることを目指したアポロ計画ですが、この前代未聞の計画がずっと順調に進んだわけではありません。
1967年1月、地上で訓練を行なっていた「アポロ1号」で火災が発生し、搭乗していた3名の宇宙飛行士が亡くなってしまいました。この事故はアメリカ国民に大きな衝撃を与え、計画の中止を望む世論が高まります。
大きな犠牲を生みながらも、様々な見直しや機器の再設計を経て、約2年後の1968年12月に打ち上げられた「アポロ8号」で史上初めて有人宇宙船での月周回に成功します。
そして、ついに歴史的な瞬間が訪れます。
1969年7月20日(協定世界時)。「アポロ11号」が月への着陸に成功し、船長であるニール・アームストロングと月着陸船操縦士のバズ・オルドリンが人類で初めて月面に降り立ちました。
「That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)」
このアームストロングの言葉のとおり、彼らが踏み締めた小さな一歩は人類の持つ可能性を大きく拡張したのです。
その後もアポロ計画は「アポロ17号」まで続き、総勢12名のアメリカ人が月の大地に立ちました。2022年2月現在、月面に人間を送ることに成功したのはアポロ計画だけです。
また、月面にはアポロ1号で犠牲となった3名の宇宙飛行士の名を刻んだ慰霊碑が設置されています。
アポロ以後
有人月面探査はアポロ17号が最後となりました。もう50年以上、人類は月へ行っていません。
ですが、月の探査はそれ以降も続きました。各国の活動をかいつまんでご紹介いたします。
アメリカ合衆国
アポロ17号以降、米国の月探査は長いあいだ停滞していました。
しかし22年が経った1994年、再びアメリカ合衆国の探査機「クレメンタイン」が月へと向かいました。この探査機の観測により月全体のデジタル地形データが作られました。
1998年には水や鉱物資源の分布や地殻活動の調査のために探査機「ルナ・プロスペクター」が打ち上げられ、月の極地方(北極、南極)に約60億トンもの水が存在している可能性があることを突き止めました。
さらに2009年には、将来再び行われるであろう月有人探査のための情報収集を行う月周回衛星「LRO(Lunar Reconnaissance Orbiter)」と、クレメンタイン、ルナ・プロスペクターによって示唆された水の存在を確かめることを目的とした探査機「エルクロス」が打ち上げられました。NASAはこの調査により水の存在を示す複数の証拠を得たと発表しました。
ソ連(ロシア連邦)
1970年9月、無人月探査機「ルナ16号」が月の土壌を地球へ持ち帰りました。
無人機による試料の採取(サンプルリターン)は世界初の快挙でした。この後も探査は続き、1972年の「ルナ20号」、1976年の「ルナ24号」による月の土壌採取が行われ、3機で合計326gの土壌を地球へと届けました。
しかし、ルナ計画は「ルナ24号」が最後のミッションとなり、それ以降は宇宙ステーション開発や金星探査へと注力していくことになります。
日本
1990年に、日本初の月探査として工学実験探査機「ひてん」が月周回軌道に投入されました。
これにより、日本はソ連、米国に続く世界で三番目に月軌道へ人工衛星を送った国となりました。ひてんは月スイングバイ(月の引力を利用して衛星の移動方向を修正する技術)などの実験を行いました。
また、2007年には月周回衛星「セレーネ(愛称:かぐや)」が打ち上げられました。2機の子衛星と14種類の観測機器が搭載されたセレーネの探査は、アポロ計画以後最大規模の月探査となりました。
セレーネは月の裏側の重力場を世界で初めて直接観測し、月の表と裏で重力場が異なっていることを発見しました。
インド
2008年、インド初の月面探査機「チャンドラヤーン1号」が打ち上げられました。
このチャンドラヤーン1号の観測結果と、それまでに行われた他国の観測結果とを統合することで、月に水が存在する可能性が大きく高まりました。
中国
中国は2003年より月探査計画である「嫦娥計画」を開始し、大きな成果を上げています。
2013年に打ち上げられた無人探査機「嫦娥3号」はソ連のルナ24号以来、37年ぶりに月に軟着陸した探査機です。
2019年には「嫦娥4号」が世界で初めて月の裏側での着陸を成功させ、搭載した月面車「月兎2号」と共に2022年2月現在も科学データを収集し続けています。
2020年には「嫦娥5号」が月での無人サンプルリターンに成功しました。これは米国、旧ソ連に次ぐ44年ぶりの快挙でした。
また、中国はこの嫦娥5号の探査により月に水が存在する証拠を現地調査にて確認したと発表しました。直接に水の存在を確認したのは世界初の成果です。
これからの月探査
最後に人が月面に立ったアポロ17号から50年以上の時を経て、再び人類は月の有人探査を目指しています。日本も参加している「アルテミス計画」について、今後の探査・開発計画についてご紹介させていただきます。
アルテミス計画
アルテミス計画とは、アメリカ航空宇宙局(NASA)が中心となって月や火星の有人探査等を目指す新たな宇宙飛行計画です。
本計画では米国の民間宇宙企業や、ヨーロッパ各国の共同機関である欧州宇宙機関(ESA)、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など多数の国際協力のもと実施されます。
月探査におけるアルテミス計画は、以下の3つの段階に分かれています。それぞれの段階ごとに内容を見ていきましょう。
また、各段階の実施時期は予定であり、多少後ろにずれ込むことが予想されています。
アルテミスⅠ
初期段階となるアルテミスⅠは無人の飛行テストです。
NASAが新たに開発したロケット「SLS(Space Launch System)」と、同じくNASAがスペースシャトルの後継として開発した「オリオン宇宙船」が使用されます。
オリオン宇宙船を搭載したSLSが宇宙へと上がります。その後オリオン宇宙船は無人のまま月周回軌道へと入り、数日間のあいだ月を周回してから地球へと帰還します。
また、SLSにはオリオン宇宙船以外にも13機の超小型衛星(キューブサット)が搭載される予定で、そのうち2機は日本の「OMOTENASHI(オモテナシ)」と「EQUULEUS(エクレウス)」です。
放射線環境を観測しつつ月周回軌道へ入り、数日後に月面に衝突するような形で硬着陸(ハードランディング)します。わずか13kgしかない超小型の探査機で月の着陸を目指すのは初めての試みです。
超小型衛星という制約のなかで効率的な軌道制御技術を実証しつつ、月の裏側のラグランジュ点(地球、月の重力が釣り合う地点)へと向かいます。その後、ラグランジュ点にて月に隕石が衝突した際に起こる発光現象の観測などを行う予定です。
アルテミスⅡ
アルテミスⅡでは前段となるアルテミスⅠで無人だったオリオン宇宙船に宇宙飛行士が乗り込み、テスト飛行を行います。
これがアルテミス計画における最初の有人飛行となります。月への着陸は行いませんが、月へ向かう有人飛行はアポロ17号以来で約半世紀ぶりです。
アルテミスⅢ
アルテミスⅠ、Ⅱを経て、ついにアルテミスⅢにて有人月面着陸が行われます。
着陸には米国の民間企業であるSpaceX社の「スターシップ」が使用されます。オリオン宇宙船は月の近傍まで行くことはできますが、月に着陸することはできません。そのため、着陸用の宇宙船(HLS:Human Landing System)に乗り換える必要があるのです。
本来、SpaceX社のスターシップは火星などの外惑星探査を目標としている宇宙船ですが、アルテミス計画で使用されるものはHLS専用の機能を備えたものとなっています。
アルテミスⅢのざっくりとしたロードマップは以下のとおりです。
1.宇宙飛行士たちがオリオン宇宙船を搭載したSLSで宇宙へ上がる。
2.事前に月周回軌道に待機させておいたスターシップに乗り換えて月面着陸を行う。
3.月でのミッションを終えた宇宙飛行士たちは再び月周回軌道でオリオン宇宙船に乗り換え、地球へと戻ってくる。
この後のアルテミスⅣ以降ではさらに探査や開発が続いていき、やがては月面基地の建設も行われる予定です。そして2030年代には、アルテミス計画の最終目的地である「火星」を目指すことになります。
月軌道周回ゲートウェイ
アルテミス計画と同時に進行するのが、月周回軌道に設置される探査拠点「月軌道プラットフォームゲートウェイ(LOP−G:Lunar Orbital Platform-Gateway)」の建設です。
地球低軌道(地上から約400km)で稼働中の国際宇宙ステーション(ISS)の約6分の1ほどの大きさしかなく、滞在できる宇宙飛行士もISSより2人少ない4人となっています。
ゲートウェイは宇宙探査や通信の中継点であるため、科学実験などを行うISSのように長期間人員が滞在するものではありません。そのため、最長でも30日程度の滞在を想定した設計となっています。
また、ゲートウェイはISSのような低軌道ではなく、月の南北を通るNRHO(Near Rectilinear Halo Orbit)と呼ばれる高度4,000〜70,000kmの楕円軌道に投入されます。これには以下のような理由があります。
・探査目標である月の南極の可視時間が長い。
・月低軌道に建設するよりも輸送コストを格段に削減できる。
ゲートウェイの建設は数年をかけて段階的に行われ、最初のモジュールは2024年に打ち上げられる予定です。完成後は月の探査や月面基地建設の拠点となるだけでなく、アルテミス計画の最終目標である有人火星探査の中継点としても利用される予定です。
終わりに
今回は月探査の歴史と今後の計画について見てきました。
アルテミス計画はまだ始まったばかり。今後も目が離せませんね。